愛知県碧南市にある美術館を訪れた際、近隣を散歩していて見つけた「清澤満之記念館」。正直なところ、それまでまったくその名を知らなかったのですが、なんとなく気になって、入館してみることにしました。

清澤満之(きよざわまんし)は、東京大学で西洋哲学を学び、仏教の近代化に尽力した明治期の宗教哲学者。正岡子規や夏目漱石など、多くの文化人に影響を与え、現在でも仏教や哲学の研究において重要な人物とされています。
記念館のある碧南市大浜の西方寺は、彼が生涯を終えた場所なんだそうです。

満之は1863(文久3)年、尾張藩士族・徳永氏の息子として名古屋市に生まれました。
幼いころから優秀で、医者を志していた時期もあったそうです。その後、東本願寺の育英教校に進み、さらに東京大学で仏教と西洋哲学を学ぶなかで、彼の思想や信念が形づくられていきました。
大学を主席で卒業したのち、教師となった満之。京都府尋常中学の校長を務める一方で、宗教界のあり方に疑問を抱くようになります。明治23年、中学校長職を辞任、髪を剃り、「ミニマムポッシブル」の実験と称する禁欲生活を実践するようになります。

この禁欲生活が、かなりストイック!
食事は麦飯と漬物のみ。煮炊きはせず、飲み物はお茶ではなく白湯。質素な袈裟姿で過ごしていたといいます。
極限まで削ぎ落とした生活のなかで自己と向き合う姿勢は、満之独自の思想の出発点になったともいわれています。ただ、そのあまりにも厳しい修行が原因となって、彼は結核を患ってしまったのです。
宗教改革に取り組んでいた満之でしたが、療養のため転地療養を決意。京都を引き払い、愛知県の西方寺へと移り住みました。それが、まさにこの記念館のある場所です。
西方寺が位置する大浜は、当時、漁師町としてにぎわっていました。
人の多さや町の活気になじめなかった満之は、部屋にこもり、経典を読み進めながら静かに思想を深めていったそうです。

1903(明治36)年に生涯を終えるまで、満之はこの地で過ごしました。その部屋は、今も記念館の敷地内に残されています。
満之の書物や手紙が展示された記念館から渡り廊下を進み、別棟へと案内してもらいました。ここは、西方寺の書院にあたる場所。細い階段を上って2階へ行くと、畳敷きの小さな部屋がありました。ここが満之の執筆の場です。

中にあるのは、質素な文机と小さな本棚だけ。
これぞ、究極のミニマル空間!
内省し、思索を深めるための「余白」が、そのまま空間になったとでもいうような部屋でした。この“何もなさ”があったからこそ、思索はより深まり、精神の集中が保たれていたのかもしれませんね。

簡単に物が手に入る現代。
気づけば部屋は物であふれていく——完全に自省です(笑)。
そんな今の暮らしから見ると、満之の部屋はあまりにも対照的で、とてもストイックに映りました。便利さや選択肢の多さに囲まれた私たちの生活は、ときに落ち着かなさや疲労感を生むこともあります。収納の工夫も、見せるためのインテリアもないこの部屋を眺めていると、「何もないからこそ、視界も気持ちもすっきりする」そんな感覚になって、部屋のあり方が気持ちに与える影響は、思っている以上に大きいのかもしれないな~と感じました。

もちろん、満之の生きた時代と現代では生活条件がまったく異なり、単純に比較はできません。
それでも、情報や物に囲まれて暮らす今だからこそ、あえて「増やさない」空間が、思考を落ち着かせる余白をつくることもあるのかもしれない——そんなことを、ぼんやり考えたのでした。
窓の外には、瓦屋根が広がります。当時は、その向こうに海と浜辺が見えていたそうです。
この窓から見える景色は満之にはどのように映っていたのでしょう。

最後に案内してもらったのは、建物の1階奥にある小さな部屋。畳2枚ほどしかないこの場所が、満之の終焉の地です。

満之は、この部屋で最後の時を迎えました。ミニマルポッシブルを身をもって体現し、結果として「何もない」場所に身を置いた清澤満之。
その空間は、今の感覚で言えば驚くほどミニマルですが、そこには思考を深めるための確かな静けさがありました。




